モーリス ブランショ。 ブランショとは

モーリス・ブランショ

ブランショ モーリス

この理由の一つには、よく言われることだが、ブランショの読者がブランショを論じようとすると、テクストの放つ「魅惑」から抜け出ることができず、彼の駆使する逆説を自分のものにすることも相対化することもできずに繰り返してしまい、結局「論ずる」に至らないということがある。 ブランショは絶えずそうしなければならなかった〔……〕エクリチュールから生へ、生からエクリチュールへと向かうこの絶え間ない動きを書くことは、あらゆる伝記において賭けられていなければならないのだが、しかしそれはすぐさま、いかなる伝記の賭け金でもありえなくなる。 しかしこれは、「ベルリンの名」や『明かしえぬ共同体』等に表れる、六十年代以後のブランショにおける「具体的な抽象」としての「政治的なもの」の思考を踏まえ、「政治」をより広義に捉えたためだろう。

開催が逝去の一月後であったために、本シンポジウムはともすると「ブランショの死を記念しての」シンポジウムとみなされがちだが、それはやや主旨に反することである。 19世紀末以来の文学と思想の歩みが示す極限的なありようを精密に描き出し、現代の文学的・思想的状況の基底部の力学を明確にとらえるのだ。

blog 水声社 » Blog Archive » 12月の新刊:『モーリス・ブランショ』

ブランショ モーリス

ドゥルーズの言う「ひとつの生」は、しかしながら、なにもバイオ・テクノロジーに関わるだけのものでは決してなく、言語・思考・社会といったあらゆる知的領域における〈創造的進化〉の場面にも同様に関わるものであるとみなされなければならない(先にも述べたが、この点においてこそ、フーコーはドゥルーズとともに同じ〈中心〉をなしている)。 記して感謝申し上げる(月曜社編集部記)。 もっとも、それゆえに前記のピエール・アンドリューは、ブランショの転向について「もっとも信用のおけない人物」と酷評している。

そこでは、いまなおフランスに存命する作家にして批評家への一種の入れ込みようが感じられ、強い印象を残したのである。 あるいはなにも湧き上がってこないかもしれない。

[B! Wikipedia] モーリス・ブランショ

ブランショ モーリス

『モーリス・ブランショ』訳、、1992年、新装版2015年• Henri Michaux ou le refus de l'enfermement 1999年 (『アンリ・ミショー あるいは閉塞の拒否』)• 極右時代のブランショも含めた知識人たちのを研究したジェフリー・メールマンの『巨匠たちの聖痕』があるにしても、彼の「」後の政治的態度は一貫しており、みずからの転向についての考えはその著作から窺い知ることはできないが、推測することは難しくない。

1
初期のブランショに関してはむしろ、シンポジウム全体を通して、延べ三十七の発表のうち四つが四十年代のジャン・ポーランとの関係をめぐるものであったことに驚かされた。 当時、ブランショは、社会と議会制民主主義を拒絶し、の物質への偏向を批判し、犠牲を厭わぬ英雄的な行動によって現状を打倒し、フランスの精神的価値を高めようとの主張を繰り返していた。

モーリス・ブランショ

ブランショ モーリス

2018年2月15日更新. また大学時代にはなどの影響を強く受け、自らも思想に接近。

9
そのミショーとブランショとの親近性について論じたのはピエール・ヴィラールである。

「モーリス・ブランショの死後に行われたパリでのシンポジウムについて」記:郷原佳以

ブランショ モーリス

最後に、これについてのドゥルーズ自身による言葉を引用しておこう。 そして、もしドゥルーズにとっての〈創造的進化〉が「反自然的な」〈他者への生成〉を原理とするものであるならば、それはまさに以上のような意味においてのことなのだ。

小さな会ではあるが、様々な視点からのアプローチを知ることのできる有意義な研究会である。

モーリス・ブランショ おすすめランキング (59作品)

ブランショ モーリス

恐らく、それまでにもその名を目にはしていただろう。 中のブランショについては、親ドイツ的中立ので職に就いていたとの報告がある一方で、二つの伝記的事実が公にされている。 グロスマンは、『来るべき書物』収録に際し『NRF』誌発表版から削除された冒頭部と物語『最後の人』(一九五七年)との類似を指摘し、ブランショとアルトーの「対話」が遠回しな仕方で続いていたことを示した。

8
ここでは、非常に不充分ではあるが、紙数の都合上、見事な議論展開を見せたディディ=ユベルマンの発表のみを簡単に要約する。